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      <title>HottaWorld：：「活・喝・勝」</title>
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      <description>「活・喝・勝」は、堀田信弘の”君ならなれる！確率より可能性で選ぶリーダーに！”を伝えるリーダー養成塾コラムです。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
      <lastBuildDate>Thu, 24 Jul 2008 05:59:52 +0900</lastBuildDate>
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      <item>
         <title>自惚れと自信の違い</title>
         <description><![CDATA[私がこれまで接してきた部下は、何百人いただろうか。様々な部下と接したことが、私には大きな財産である。
<div id="ranking">
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最も勉強となったのは、年上の人を部下に持ったことである。

私は、初めて管理職になったのは、20代後半の頃だ。その頃の私は、今思えば、世間知らず、教養なしのただの若造である。終身雇用、年功序列が崩壊し、成果主義が叫ばれた頃だったから、私が20代で管理職になったのは、自分が勝ち取ったと思っていた。

人間は、人に選ばれたというより、自分が勝ち取ったと思うと、当然横柄になる。しかし、若い頃は、その自分の姿など顧みようとしない。

だから、部下から反発も食らう。

私は、ある年上の部下に、あまりにも責任感のないことに腹を立て、注意したことがあった。すると、相手は私の胸倉を掴み、「ふざけるな、ぶっ飛ばすぞ」と恫喝された。

それでも、私は、自らの信念に基いて、その人をクビにした。その人は、業界から去った。

その頃の私は、当然のことだとしか思わなかった。

しかし、今振り返って見ると、私は、例え部下であっても、人生の先輩である年上の人に、敬意を表した接し方をしていたかと言うと疑問を感じてしまう。

その出来事から数年経って、今度は、ある年配の部下から「どんなに論理的に正しくても、人は、気持ちが通じなければ、心から従おうとはしない」と忠告された。

その人は、その言葉の後、次々に私の指示を拒んだ。

私は耐えかねて、「私は、あなたに会社を辞めてもらうと思っている。でも、このような原因になったのは、私の責任です。だから、私は、あなたをクビにする日、必ず私も辞めると約束します。これで、上も下もない対等です。」と告げた。

それから数年後、私はその人に言った。

「私は、今月で辞めることにしました。私は自惚れていました。自信と自惚れを履き違えていたのかも知れません。もう、私の力では、とても動かせません。色々と勉強になりました」

その時、社員全員が、私の部下となっていた。

その二ヶ月前、私は、体調を崩し入院した。体と心のバランスも崩れていたのである。

そして、今、私のグループには多くの社員がいる。

若い人もいるし、年配者もいる。女性もいるし、外国人もいる。男女、世代、異文化、多文化、多民族という地球のミニチア版のような会社だ。

この環境の中で、将来のリーダーが学んでほしいのは、謙虚さである。自ら経験した私が言うのも説得力がないが、自惚れと自信を履き違えないことだ。

できる人、力がある人ほど、経験を積むにつれて自信を持つ。自信とは、自分の力を自ら信じて、一生懸命にやり抜ける意欲である。これは、自分の心の持ちようである。自信とは、自分の心の中で持つことなのだ。

しかし、自信という刀を持った人間は、それを他人に見せようとする。自信という刀が見え隠れしている時、他人からは、自信にみなぎっているように見える。

しかし、一旦刀を振りかざすような言葉遣いや、傲慢で横柄な態度が見えると、それは自信ではなく、自惚れに映る。自惚れとは、他人の評価である。自分自身が気がつかない、他人の評価である。

20代前半、必死で仕事を覚えようとする。誰よりも上手くなろうとする。それが評価される20代後半から30代。これまでの自分の努力は、自分が勝ち取ったものだと考えるようになる。

選んでもらった、チャンスをもらったと感謝するのではなく、自らが勝ち取り、チャンスをものにしたと考える。確かに、その人のこれまでの結果や、成果は、その人がもたらしたものかも知れない。自分が努力して、大きく成長したことは認めよう。

だが、そうやって我が我がと思っているうちは、心は全く成長していないと言えよう。特に、これまでの成果と、上司となって人の上に立つことは別物であることを認識しなければならない。

どんなに営業成績が優秀だからと言って、有能な営業部長になるのではない。

自惚れと自信。これを誤解すると、優秀、有能を問わず、その人の心はボロボロとなり、人間失格となる。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_494.html</link>
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         <category>若者について</category>
         <pubDate>Thu, 24 Jul 2008 05:59:52 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>ナイスリカバリー</title>
         <description><![CDATA[社長の仕事をしていて、一番嬉しいことは何であろうか。儲かった時か、プロジェクトが上手く行った時か。
<div id="ranking">
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私は、部下の成長を感じた時が一番嬉しい。そして、もっと贅沢を言えば、私の考えを理解してくれた瞬間はもっと嬉しい。

裏返せば、私の最も悲しいのは、私の考えを理解してくれないことである。そして、部下が成長するどころか、後退するような場面を見ると、居たたまれないほどの悲しさを覚える。

大体にして、社長の日々は、孤独だ。そして、毎日毎日、嬉しいことよりも悲しいことや嫌なこと、腹立たしいことの連続である。

だからこそ、一輪の花がパッと咲いたような出来事には、ひどく感動してしまう。

先日、私が社員に出したメールに対して、私の考えを補足してくれた人がいた。彼女は、そのメールには記載されていない、私の考えていることを代弁してくれたのだ。

私は、とても嬉しかった。私は、その気持ちを表すのに「ナイスリカバリー」と返信した。

社長であれ、人間である。足りないところもあるし、ミスもする。またあるいは立場上、違った角度から話をしないといけない場合がある。その立場を汲み取って、リカバリーショットを放ってくれるのは、頼もしく思う。

毎日毎日、社内朝礼ブログを書いていても、どれだけ理解してくれているかは判らない。こうして、このブログを読んでいる者の中にも、理解はできても、納得できないことも沢山あろう。

百人が百人、納得するようなことは皆無だ。仮に理解できても、心底から納得できる人は少ない。さらに、納得できた人でさえも、頭で判っていても、行動できるまで考えを浸透できる人は僅かである。

そのような人が、トップの下に何人いるか。その数が多い集団は、間違いなく強い。

これは、ワンマンだとか、独裁者だとか、イエスマンの集まりだとかというような、陳腐な論理では語りたくない。

好きとか嫌いとか、仕事ができるとか出来ないとかではなく、社長たるトップの方針を、周囲のスタッフがどれだけ具現化、補助できるかという問題である。

裏返せば、社長として悲しいのは、社長の考えを理解してくれないことである。どんなに仕事ができる人が周囲にいても、社長の考えを理解してくれない人ばかりでは、その組織はまともに機能できるはずがない。

社長の考えを理解してくれない人、つまり社長に不満がある人だらけになれば、それはもはや社長の問題であり、社長は退任したほうが良いだろう。それが、その会社にとって一番である。

社長は、そんなことを十分知っているから孤独なのである。なぜ理解されないのかと悩む。しかし、悩んでいても何の解決にもならない。

これを解決するのは、一緒に解決してくれる人を、たった一人でも良いから作るしかないのである。

そして、社長が部下の成長を嬉しいと思うのと同時に、部下は社長から期待され褒められるのを望んでいるのである。

部下だって、できることなら社長のためにリカバリーショットを放ちたいと考えているのだ。社長は、そのショットが打てるような場面をどれだけ作れるかが仕事である。

場面を用意もしないで、ショットを期待するのは論外である。

どんどん場面を用意すれば、その場面をものにしてくる者は必ず現れる。

部下のミスショットばかり叱っていると、自分のミスショットは誰もリカバリーしてくれなくなる。

お互い様なのだ。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_493.html</link>
         <guid>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_493.html</guid>
         <category>嬉しい出来事</category>
         <pubDate>Tue, 22 Jul 2008 06:58:57 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>経営者は経営のプロだ</title>
         <description><![CDATA[私は、全員経営主義という言葉に違和感を感じる。
<div id="ranking">
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全員経営の目指すべき方向とは何であろうか。

全従業員が経営感覚を持って、顧客と接してほしいということだろうか。それとも、コスト意識や利益を意識して、経営者のつもりで行動してほしいということだろうか。またあるいは、経営者と同じように、会社の看板を背負っているということを認識してほしいということだろうか。

私には、全員経営主義を掲げる意味が理解できない。

もし、従業員に経営感覚を身につけてほしいというのであれば、経営感覚とは何であろうか。

もし、コスト意識や利益を意識してというのであれば、そのことが経営を指しているのであろうか。

もし、会社の看板を背負ってというのであれば、経営者だけが会社の看板を背負っているのであろうか。

では、全員経営主義とは何なのであろう。

多分、「わが社は、これはこういう意味で使っています」と反論する人もいるであろう。

仮にそれを説明してくれて、私が理解できたとしても、私は納得行かない。

それは、根本的な考え方として、経営者とは、経営のプロであるべきである。だから、責任が重い分、報酬も高い。指揮する必要があるから権限がある。権限があるから、社員を解雇にさえできる。会社を倒産させないようにするために、個人保障をしてまで会社のために借金する。

経営者の考え方を知ってほしいと願っても、それは経営者の身勝手だ。従業員に重荷を課すだけである。

もっと強く言えば、経営者たる者が、従業員に経営者の責任を押し付けるなということである。

百歩譲って、本気で、全員経営主義を行うのなら、全員取締役にしたら良い。それができるのが、本当の全員経営主義ではないか。

権限や報酬や、地位や、部屋までも従業員と違えていて、皆も経営感覚を身につけてほしいと叫ぶのは、ズルイ。自分の経営感覚の無さを、従業員に補ってもらおうとも言うのか。

それなら、全員取締役にして、毎年、社長選出選挙でも行えば良いではないか。

経営者は、経営のプロだ。

管理職ではない。管理職は、管理のプロになれば良い。営業は、営業のプロになれば良い。

私は、社員を経営者にする時、これまでの経験は関係ないと言っている。どんなに営業成績が良かっただろうが、どんなに有能な技術者であろうが関係ない。全く別の職業に就くのだ。経営者という全く新しい職業だから、ゼロから勉強してほしいと言っている。

経営者は、経営のプロではなくてはならない。経営者がプロでなければ、従業員に「プロ意識を持て」何て事も言えないはずである。

経営者は、管理職とも違う。部長や事業部長から、ほんの一段階上がって取締役になった瞬間、管理職という職業ではないのだ。会社を発展させ、会社が倒産しないように考え、従業員の幸せと、顧客の満足を考える会社側の人間である。ただ単に工程や、ミスを管理するのは仕事ではない。

経営者というのは、経営のプロでなくてはならない。

そのプロが、簡単に「皆も経営者のようになってくれ」と軽々と言えるはずもない。

それでも反論があるのなら、日本の総理大臣に「あたなは日本国民なのだから、総理と同じように日本のために朝から晩まで寝ないで国のことを考えてほしい」と言われて、「はい、判りました」と言えるだろうか。

選挙にも行かないような人間が、国のことを寝ないで考えられるはずもない。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_492.html</link>
         <guid>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_492.html</guid>
         <category>経営者について</category>
         <pubDate>Sun, 20 Jul 2008 05:58:14 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>行動が変われば人格が変わる</title>
         <description><![CDATA[以前、私は『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2007/03/post_328.html" target="_blank">性格・人格・品格</a>』という中で、『茶髪の"人格"を持った父親と、タバコを捨てる"品格"のない母親、他人には道具を貸さず、他人の道具を平気で使う子供。そんな子供が他の子供に砂をかけても見ていない両親。そんな子供はどんな"性格"を持ち、どんな"人格"を持った人に育つのだろう。』と書いた。
<div id="ranking">
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人の性格は、他人がとやかく言っても変わらない。本人が自ら変わろうとしてもさえ、そう簡単には変わらない。

それを総称して、人々は「人間はそう簡単に変わらない」と言う。それは、"性格"という点を捉えれば、間違っていない。私も神ではないから、どんなに頑張っても、部下の性格を変えるようなことなどできるはずもない。

でも、人間は変わる。間違いなく変わる。変わるからこそ、社内教育や朝礼などの啓発が重要なのである。

ある経営者が言った。「二十歳を過ぎた大の大人が、今さら教育を受けても変わりやしない。社員教育何て効果がない」と。

この経営者は、経営失格である。私からすれば、その経営者こそ、一から社員教育を受けたら良い。さもなければ、その人がやっているのは経営ではなく、ただの商売にしか過ぎない。

四番バッターのようなスター選手ばかりを集めてチームを作る企業がある。だからと言って、そのチームが勝てるはずもない。このチームは、人を育てることを放棄し、人を調達することしか頭にない。

金でかき集めて、チーム一丸になれるのか。

私は、いつも、経営とは組織作りだと言っている。ゼロから人を採用し、人を教育して、組織の文化を作る。その文化の作り方によって、単なる人の和が、積に変わるのである。

和が積に変えること、これこそが組織であり、経営である。３人がそれぞれバラバラに３人分の仕事しかできないのであれば、単なる個人事業主の集まりであり、組織ではない。３人が４人分、５人分の仕事ができるような関係が組織ではないか。

和が積に変えること、これこそが経営者のやる仕事である。

和を積に変えるには、社員の意識を変えなければならない。そして、行動を変えなければならない。それこそが社員教育である。

人間は変わる。間違いなく変わる。経営者は、変えるのが仕事だ。それは、人の性格を変えるのではない。

経営において、性格が合う合わないなんて小さなことはどうでも良い。行動を表す人格を変えるのだ。社員としての品格を変えるのである。

人格や品格は、行動した様子を表したものである。ならば、行動を変えれば良い。人の性格は変えられないが、行動は変えられる。それが教育である。

どう変えるか、その考え方こそが経営哲学である。どういう経営をしたいかということである。

しかし、人の性格に基づいた人格は、そう簡単には変わらない。でも、必ず変わる。根気強く、諦めずに、変わることの必要性を問い、変わることのメリットを教示するのだ。

根気強く。これが普通の経営者は中々できない。

その理由は、鼻から人は変わらないと決めつけているからだ。何度も言うが、性格は変わらない。それと行動を変えるのは別物である。その混同をやめない限り、行動を変えるという指導力は発揮できないであろう。

経営者とは、指導者である。指導者であるならば、変わることを信じて、根気強く指導を繰り返すことである。それを放棄することは、自分の指導力のなさを認めることであり、経営者失格ということである。

派手な茶髪を止めた父親の"人格"と、タバコを捨てなくなった母親の"品格"、これはそんなに難しいことだろうか。子供のために両親の変わった行動を見れば、発展途上の子供の"性格"に大きな影響をもたらすだろう。

人の行動は間違いなく変わる。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_491.html</link>
         <guid>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_491.html</guid>
         <category>教育について</category>
         <pubDate>Fri, 18 Jul 2008 05:57:33 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>信じる者は儲け者</title>
         <description><![CDATA[収入を得るには、支出を先にしなければならない。

従業員であれば、労働という労力を先に支出する。その対価が収入である。
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経営であれば、投資を先にするから、収益が後に来る、これが当然の考えである。

先に出して、後から得る。

これは、私の基本的な考え方であり、生き方である。

例えば、人間関係。私は、求めるよりも、与えるほうが先だと考える。私は、このことを貸しを作ると言っている。借りは作るなということである。

貸しを作ると言うと、如何にも嫌らしく聞こえるは、私が言いたいのは、先に出して、後から得るである。

それは、従業員に対しても同じである。

結果を出したものに、チャンスを与えるのではなく、私は、チャンスを先に与え、結果を期待する。

では、誰を先にチャンスを与えるか、これが難しい。まだ出していない結果に期待して、チャンスを与える訳だから、まさに、これは投資と同じである。

投資である以上、失敗することもある。でも、それは、期待に反して結果を出さなかったものだけの責任ではなく、期待して投資を自ら判断した私自身の責任である。私自身の見る目の問題である。

私のこの考えは、これまでもこのブログで何度も書いて来た。

例えば、『<a href="http://www.hottaworld.com/archives/2006/12/post_286.html" target="_blank">信じるが先か信じられるが先か</a>』という記事の中で、私は、信じることが先だと言っている。

人を信じなければ、信じられない。これは、私の生き方である。

信じる者は救われると言うが、"信じる者"を、信と者を足して漢字一文字で表すと、儲けという字になる。私の論に従えば、信じる者は、儲け者と言える。

これならやれると自分自身で判断し、自分の予想を信じて投資を行い、成功すれば儲かるという訳である。失敗したのは、自分に迷いがあったのか、あるいは自分の考え方戦術を自らが心底から信じることができなかったからであろう。

自分を信じられなければ、他人を信じられるはずもない。自分の予想を信じられなければ、投資を行うなどというリスクを負うことなどできない。

投資をするためには、お金が必要だ。自分で貯めたお金を出すか、あるいは投資家という他人に出してもらうか、あるいは借金をするか。先に出すお金が必要なのだ。お金を作るためにはお金が必要なのである。

先に出して、後から得る。

これは、経営者にはとても重要なことだ。人の上に立って、組織を路頭に迷わすことはできないが、自らはリスクを取る覚悟が無くては、人は付いてこない。

私は、一生涯、先に出して、後から得る生き方をしたい。人を信じて、信じられるようになりたい。自分の考えを信じて、思い切った投資をして儲けたい。

後だしジャンケンのような生き方は、したくない。

先に出して、後から得る。それを信じる者は、必ず儲け者になる。私は、そう信じている。

たとえ、それで失敗しても、それが私の生き方だ。その程度の人間だというだけだ。それで良い。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_490.html</link>
         <guid>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_490.html</guid>
         <category>ビジネスについて</category>
         <pubDate>Wed, 16 Jul 2008 05:56:45 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>裁く者は裁かれる</title>
         <description><![CDATA[『人を裁くのはやめなさい。そうすればあなたも裁かれることはありません。
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人を批判するのはやめなさい。さもないとそれはすべて自分のところへ戻ってきます。

あなたが人を許すなら、あなたも許されます。

あなたが人に与えれば、あなたにも与えられます。あなたがしたことは、すべてがあなたに戻ってきます。』

とは聖書の言葉である。

私は、宗教家ではないから、この考えに云々するつもりはない。しかし、現実として、裁く者は裁かれる。裁かぬ者は裁かれない。許す者は許される。許さぬ者は許されない、という事象は起こるものである。

先月、知り合いのある会社が倒産した。

その社長は、とても厳しい社長だったようだ。厳しいという意味は２つある。一つは、他人に厳しい。そして、もう一つは、自分に厳しい。 

他人に厳しく、自分に厳しいと、完璧主義になる。

彼は、他人のミスが許せなかった。彼にとって、ミスは悪であり、許し難いものであったのだ。悪は、罪であり、彼は次々に社員の首を切った。

彼は、自分もミスをしないように完璧を目指した。しかし、現実に人間は、ミスをするものである。そして、誰もしようとしてミスをしているのではない。ミスをしないとすれば、それは人間ではなく、ロボットである。

ミスをするはずもないロボットがミスをしたら、本来は、そのロボットを設計した人のミスなのである。しかし、彼は、自分の設計は完璧であると思いこみ、それを言うとおりに動かなかったロボットのせいにした。

その完璧主義は、理想の追求とうたわれたが、遂に彼は現実主義に敗れることになる。

それは、感情のないロボット扱いされた部下の反乱である。部下達が、彼に切られる前に、彼を見切ったのだ。一瞬で全社員がいなくなり、全ての取引が止まり、遂に力尽きた。

聖書の言葉を借りれば、彼は、ミスを悪と定義し、罪として裁いた。妥協が許せず、完璧を貫くために、部下のミスを許せなかった。 

しかし、その社長が、逆に裁かれることになる。社長は与えることよりも、求めることを優先した。部下達は反発し、社長を許すことができなくなった。

私は、決してこの社長を批判するつもりはない。なぜなら、私自身も、相当数の部下の首を切ってきたからだ。だから私は、常に、今度は私が切られる番だという意識が強い。

切られる覚悟で、切っている。しかし、だからこそ、私は、人が人を裁くことの難しさを知っているつもりである。そして、人として裁きを間違えれば、自分が裁かれることになるとの認識もある。

私が切るのは、完璧主義だからではない。ミスを許せないのでもない。

私は完璧主義ではなく、ダメ人間だ。欠点だらけの人間だ。だから、私には助けがいる。私は、一人では何もできない人間なのである。それを支えてくれる人たちを、勢い良く、切ることはできない。

『目の見えない人が、もうひとりの目の見えない人を導いて何の良いことがあるのでしょうか。前の人が穴に落ち、後ろの人も引っ張られて落ちてしまいます。 』と聖書は続く。

この言葉は、まさにリーダーに対する言葉である。

知恵や教養もなく、愛情も人情もないような人の心を見えないリーダーでは、リーダーの没落と共に部下までもが道連れになるだけである。 

そして、この言葉は、私への言葉でもある。

その社長からメールが届いた。

『裏切られた。でも、私は彼らを最初から裏切っていたのかも知れない。全てを失ってから気が付きました。』]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_489.html</link>
         <guid>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_489.html</guid>
         <category>リーダーについて</category>
         <pubDate>Mon, 14 Jul 2008 05:55:53 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>社員は社長の鏡</title>
         <description><![CDATA[ドロシー・ロー・ノルトという作者を知っているだろうか。 著書『子どもが育つ魔法の言葉』は、22ヵ国語に翻訳され、ミリオンセラーになった。
<div id="ranking">
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中でも、1954年に書かれた詩『子は親の鏡』は37ヵ国語に翻訳され、 2005年皇太子が自分の誕生日記者会見で朗読され話題になった。

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる

不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもはみじめな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる

親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる

広い心で接すれば、キレる子にはならない

誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ

認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる

見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ

親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る

子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ

守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ

和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世はいいところだと思えるようになる

私は、『子は親の鏡』という詩を読むと、つくづく反省させられる。

子供を不安にさせていないか、みじめな思いにさせていないか、人を羨むようになっていないかと自問自答する。

私は、励ましているか、広い心で接しているか、認めてあげているだろうか。親は、子に恥じないような子の模範となる行動を取っているだろうか。甚だ疑問である。

この詩を、親を社長に、子を社員に置き換えて読んでみよう。そして、家庭は職場と置き換える。

すると『社員は社長の鏡』ということになる。

これを読んだ社長の多くは、子と社員は違うと言うかも知れない。他人の社員を、自分の子供のようには育てられるはずがないと嘆くはずだ。 

もちろん、社員は、育ちも異なれば、境遇も違うだろう。一人一人個性も違うし、待遇も違う。

でも、私は、会長という立場で、グループ内の各社の様子を見ていると、『社員は社長の鏡』というのは間違いないと確信できる。 

社員が起こす様々なトラブルは、その社長の性格そのものである。私は、幸いに複数の社の様子を見ることができる立場にあるから、各社の社風とも言うべき組織の性格と、社長の性格は間違いなく一致している。

組織の性格とは、家庭のようなものである。その家庭に生まれた子供の性格は、それぞれ異なっても、その環境で育った子供の性格は、反面教師であろうが、明らかに親を見て形成されたのに違いない。

それは、会社でも同じである。各社員の個性や性格はまちまちでも、社長が判断して採用したのだから、それらの母集団は何らかの似た特徴を持つ。

社員は、日々様々な行動をする。会社が定めた目標に対し、社長の方針に基づいて行動する。社長の指示が曖昧であれば、社員の行動は曖昧となり、失敗する可能性も高い。

社員を叱る前に、失敗の原因は、社長自身にあることを鑑みることが重要であろう。社長が社長だから、起こるべきして起こったのみである。

社員が辞めるのも、社員が失敗するのも、会社という家庭の中で起こる全ての事象は、社長そのものである。

社員は社長の鏡なのだ。

つくづく反省してしまう。社長は、社員の模範になっているかと。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_488.html</link>
         <guid>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_488.html</guid>
         <category>ドリクラについて</category>
         <pubDate>Thu, 10 Jul 2008 05:55:06 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>小さな会社の社長と小さな器量の社長</title>
         <description><![CDATA[世の中には、小さな会社と大きな会社がある。小さな会社は、全てが小さい。組織はもちろんのこと、発想も、動かせるお金も、そして、何よりも社長自身の器量が小さい。
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社長の器量が小さければ、絶対に大きな会社にはなれない。それは、なろうともしなければ、仮になろうとしたとしても、他人が入ることを恐れるからだ。

小さな会社では、社長一人が株主で、経営陣も社長の身内だったりする。なぜか。

怖いからだ。

つまり、自分が堂々と経営をするまでの器量を持ち合わせていないからである。

その領域を越えると、経営陣に生え抜きの社員を入れようとする。もし、ここで、社長の右腕になれるナンバー２を誕生させることができれば、会社は飛躍的に拡大する。

小さな会社にとって、ナンバー２の存在は、絶大である。社長や会社の看板がなくても、会社の代表として振る舞えるようなナンバー２を持てるだけで、この会社は間違いなく大きくなる。

ところが、ほとんどの会社はではナンバー２を持つことができない。なぜか。

怖いからだ。

ナンバー２が、社長の座を脅かすのではと考えるからである。仮に肩書きだけのナンバー２を置いたとしても、社長は部下としか扱わない。対等の経営者とは位置づけられないのである。

なぜなら、そのような人物がいれば、取締役会で、社長の解任動議まで出されかねないからである。

社長は、自分が作った会社なのに、他人の後輩に社員に腹を刺されるようなことをされたくないからである。

だから、経営陣も社長のイエスマンで固めようとする。

社長は、裏切りを恐れ、自分の失態を追及されるのを嫌い、わがままで自由奔放に楽したいのである。そんな社長の器量で、大きな会社になるはずもない。

経営者とは何だ。

株主より、会社の経営を委ねられた人たちだ。その株主と経営者が一体で、どこに経営の緊張感が生まれようと言うのか。緊張感というのは、監視されること、解任されることである。

株主とは何だ。

投資した分の見返りとして配当を得る会社の所有者である。株主は、経営のプロではない。だから、株主は、経営のプロである経営者に会社を任されるのである。

それが一体であれば、立法と行政が一体のようなものだ。法律を作るのと、実施するのが一体であれば、実施するのに都合が良い法律しか生まれない。

小さな器量の社長は、経営のプロである経営者に会社を任されるのにも関わらず、そのことを雇われ社長だと言う。私からすれば、雇われ社長でない、小さな会社のオーナー社長こそ、最も器量の小さなちっぽけな会社の社長である。

そんな社長に、雇われ社長と呼ばれ、自分も株主と経営者を一体になりたいと考えるようではまだまだである。経営の緊張感の排除を求めていることであり、結果責任を逃れ、自分の能力のなさ、器量の小さなを認めているようなものである。

会社の大きさは、社長の器量の大きさだ。

社長の器量が小さければ、社長自身の保身を第一に考えるから、小さくて安心で、安全な、ぬるい会社になる。これは当然のことである。

私は、オーナである。だから、このように唱える私は、自ら株主と経営を分離すべく考えを持っている。

それは、私以外の株主を増やし、そして、私は経営から退くことである。これは、ドリームクラスターを作った時からの理念である。そうしなければ、わがグループでは、器量の大きな社長は育たない。

私の仕事は、器量の大きな社長を育てることである。だから私は、経営にはできるだけ口を出さないようにしている。

会社の大きさ、強さ。それは、全て社長の器量で決まる。株主の問題ではない。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_487.html</link>
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         <category>経営者について</category>
         <pubDate>Tue, 08 Jul 2008 07:52:50 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>年老いた若者</title>
         <description><![CDATA[私は、若者が好きだ。真っ直ぐに勢い良く走り抜けて行く若さと、真剣な眼差し、若さは素晴らしい。
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そんな若者が集えば、それだけで活気がある。そんな国がベトナムである。私は今月も、疲れきっている自分自身の若さを取り戻すため、大好きなベトナムに向かった。

先週、私は、いつものようにベトナム・ホーチミンに向かう途中、台湾・桃園国際空港を経由した。桃園空港のホーチミン行き搭乗ゲートには、沢山の乗客が待っていた。

そんな中、５、６人の若い男女のグループが、乗客の注目を集めていた。

男達は、太めのズボンを腰まで下げ、女達の腕には刺青らしき模様が描かれていた。

音楽にあわせ、床の上でクルクルと回ったり、逆立ちをしたりして、ヒップホップ系のダンスを踊っている。円になり、他人は近づけないような見えないバリアで囲まれている。

日本の駅前や路上では時より見かける風景であるが、ここは海外の空港で、搭乗ゲートの前である。私は、その光景を苦々しく眺めていた。

すると、私の隣に座っていたご婦人が「怖いわね」と日本語で呟いた。

私は、その言葉を聴いて、「これは確かに怖い」と感じた。少なくても、飛行機の中では、隣り合わせの席にはなりたくない。

彼らは、誰がどう見ても日本人である。

私は、この恥さらしの日本人に、恐ろしさと、殴りたくなるほどの憎しみの感情を抱いた。

ご婦人が言った"怖い"と言う言葉に象徴されるように、異常で狂気じみている。搭乗ゲート付近で、乱舞する彼らの行動は、周囲の人間を威嚇しているかのようにさえ見える。

彼らを見つめる多くの外国人は、日本人のご婦人よりももっと"怖い"と感じるに違いない。

私は、これまで何十カ国もの国に行ったが、空港という公共の場でこのような光景を見たのは初めてだ。

踊り好きのスペインでもイタリアでも、こんなことはあり得ない。

なぜ、日本人の彼らは平気なのか。なぜ、彼らは、怖いと思われるほどの存在になったのだろうか。

今から、彼らは、若者の多いベトナムに向かう。彼らは、あの格好で、集団で歩き、ホーチミンで何をしようとするのか。私の大好きな国で、何をしようとするのか。

そう考えると、あのご婦人が行った「怖いわね」という言葉は、彼らの身なりや格好だけでなく、日本という国が、酷く見っともない国に墜落して行く怖さを表しているようである。

こんな若者が、海外に出かけ、どんな恥をさらすのかと思うと、彼らに日本文化、思想、宗教、日本人というステータスが破壊されているように感じる。

親が子を殺し、子が親を殺す国と恐れられるようになった日本。外国人の憧れの街アキハバラで、何の関係もない人を、次々に刺し殺す無差別殺人が起こる国、日本。死体をバラバラにして捨ててしまう国、日本。

日本は、海外、とりわけアジアの国々からは、間違いなく怖い国に映っている。

その怖い国から来た刺青姿の、醜い格好の若い集団。日本のヤクザでも、こんなことはしないだろう。目の釣り上がったあの集団は、ヤクザのような義理も人情も感じられない。

私も、若い頃の格好はまともではなかった。でも、私には勇気がなかったのか、ほんのわずかな常識があったのか、搭乗ゲートの前で音楽をかけて踊るという発想はなかった。

このような若者は、今の殺伐とした日本では、増えることはあっても、減ることはないであろう。

私は、若者が好きだ。それは、真っ直ぐに勢い良く走り抜けて行こうとする若さと、真剣な眼差しが眩しく感じられるからである。

しかし、あの若者達は、ベトナム人のように真剣で眩しい眼差ではない。目は釣りあがっているが、一人一人を引き離して見ると、目の輝きがなく、なぜか悲しそうで、可愛そうに見えた。

あれは、年は若いが若者ではない。若者の格好をした夢のない年老いた若者だ。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_486.html</link>
         <guid>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_486.html</guid>
         <category>若者について</category>
         <pubDate>Sun, 06 Jul 2008 17:35:23 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>４つの窓</title>
         <description><![CDATA[先週、毎月開催している<a href="http://www.blog.ejobgo.com/entry/2008/06301300.html" target="_blank">イージョブゴーの交流会</a>にて、<a href="http://www.ena-comm.com/" target="_blank">株式会社イーナコミュニケーション</a>の代表取締役でビジネスコミュニケーション研修の講師を務める<a href="http://plaza.rakuten.co.jp/enacomm" target="_blank">樋栄ひかる</a>さんに講演して頂いた。
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コミュニケーションとは何か、自己の行動がどういう心理や特徴からきているのかなどについての話と実践という形で簡単なワークショップを開いて頂いた。

今週末、家に帰ると、中学二年生の長女が「学校で４つの窓という話を道徳の時間に習った」と話をしてくれた。

私は、その道徳があった同じ日に、樋栄ひかるさんから、４つの窓について話を聞いていたので、この偶然は何かの縁かと思い、改めて勉強してみることにした。

４つの窓とは、アメリカの心理学者、ジョセフとハリーという二人の心理学者が発表した「対人関係における気づきのグラフモデル」のことで、二人の名前をとって「ジョハリの窓」と呼ばれている。

人間の行動と心理を、縦軸を他人から見た自分、横軸を自分から見た自分として、４つの窓に分類した。

第一の窓は「開放の窓」と呼ばれ、自分にも他人にも見えている公開されている自分の姿である。

第二の窓は「盲点の窓」と呼ばれ、他人からは丸見えだが、自分自身が気づいていない見えない自分である。

第三の窓は「秘密の窓」と呼ばれ、自分だけは知っているが、他人には押し隠している自分の姿である。

第四の窓は「未知の窓」と呼ばれ、自分も他人も気づいていない誰からもまだ知られていない潜在的な自分である。

人間は、自分も他人もわかっている「開放の窓」で接することができれば、自然に伸び伸びと自由に振舞えるため、活発なコミュニケーションが行えるのである。

娘は、学校で「開放の窓」をできるだけ大きくすることで、自分らしさが出せ、友達との関係も良好になると教わったらしい。

ところが、学校では、周囲から見えている姿に、自分自身が気づかず、感情の行き違いが発生する。特に、娘のような思春期には、この「盲点の窓」が大きく、他人から自分のことを指摘されると、そのことに反発を持ち、謙虚に耳を傾けようという意思が働かない。この窓の存在が、人間関係のトラブルを生み、いじめなどのきっかけが生じる。

そして、もう一つ問題を起こすのが「秘密の窓」である。他人には知られないようとする自分の姿が大きいと、犯罪に走る傾向があるとのこと。親に隠し事をしたり、友達に嘘を言うようになることが、この窓の存在である。

娘は学校で、自分が気づいている自分の欠点や弱点を隠そうとすれば、するほど、自分らしさが出せず、嘘が生まれたり、他人とのコミュニケーションにぎこちなさが生じると教わったようだ。

そして、最後の「未知の窓」は、誰も知らない自分の未知の可能性が秘めている。若ければ若いほど、「未知の窓」は大きい。そして、謙虚であればあるほど、その窓は、やがて自分や他人に見えるようになってくる。

大人になっても、この潜在的な能力は、自分次第で開発できる。それは、謙虚さとオープンな心を持ち、自らは「開放の窓」を広げようと努力し、他人から指摘される「盲点の窓」に耳を傾けることである。

人は、誰しも４つの窓を持っている。それぞれの大きさや要件は勿論、それぞれ異なる。

私は、経営者になって、やっと「開放の窓」を大きくすることの大切さを知った。このブログは、「開放の窓」を大きくするための仕事の一つである。

自分の内面や、考えを表面に出し、有言実行を求められる環境に自分をおく。

私には、「未知の窓」がどれほどあるのか知らない。しかし私は、その潜在的な姿を知りたいがために、「盲点の窓」と「秘密の窓」をできるだけ「開放の窓」に近づける必要があると考える。

しかしながら、誰が他人の窓を開けることができようか。

窓を開けることができるのは、自分自身しかいない。その窓を開けるのを怖がっているのは、自分の姿が裸になるのを恐れるからであろう。

このブログを読んでいるリーダーは、「開放の窓」の大きさが経営者としての器の大きさなのだと思う。器の大きな人ほど「開放の窓」が大きいのである。

私は、これからも「開放の窓」を広げていく所存だ。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_485.html</link>
         <guid>http://hottaworld.com/archives/2008/07/post_485.html</guid>
         <category>教育について</category>
         <pubDate>Tue, 01 Jul 2008 06:25:42 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>拳銃を持った優しさと厳しさ</title>
         <description><![CDATA[私は、このブログで何度も言っているが、経営者は指導者でありリーダーである。これは、このブログのテーマであり、私の信念でもある。
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社員を指導できない人は、経営者ではない。人間的な魅力があって、その人の話に耳を傾けてもらえるような人でなくては、リーダーではない。

社長というポジションは、誰にでもなれる。社員を指導できない人でも、人間的な魅力がない人でも、会社を作れば社長だ。

そのような経営者としての資質を持たないダメ社長でも、社長は社長である。社長になった瞬間に、その人は強大な権力を持つ。

金と人を操ることができる権力である。

どんな能力がない社長でも権力を持つ。そのような社長が振る権力に当たると、そこで働く従業員は堪ったもんじゃない。奴隷の如く扱われ、金で頬たたき、厳しさだけを要求して、それになびかなければ後は切るのみである。

どんな能力がない社長でも権力を持つ。だからこそ、その権力は威圧的で怖いものである。例えれば、本来持つことができない拳銃を、社長になった瞬間から持つようになり、常に腰につけて振りかざしているようなものである。

そんな人の下で、進んで働きたいと思うか。

私は死んでも嫌だ。

そんな能力がない社長に拳銃で撃たれるくらいなら、私のほうも撃たれる覚悟で撃ち返すことを考えるだろう。つまり、拳銃という権力を振りかざせば、その人には悪意が生まれるのは当然のことなのである。

相手は、心を持った人間である。権力がない弱い立場の人間だ。

優しさという心を持たない冷徹な権力者は、冷たさと厳しさと、恐ろしさが兼ね備えた強い立場の人間だ。

社員を指導できない人は、経営者ではない。人間的な魅力があって、その人の話に耳を傾けてもらえるような人でなくては、リーダーではない。

謙虚さという大きさの中に、積極さがあるのと同じで、真のリーダーというは、優しさという大きさの中に厳しさがあるのだと思う。

謙虚さのない積極性は、傲慢にしか映らない。積極さを高めるのは、それを包み込むようにした謙虚さを大きくしなければならない。

同じく、従業員に厳しい指導をするには、それを包みこむようにした優しさを大きくしなければならない。

どんな社長でも、社内の最高権力者である。

その社長が、権力を振りかざさなくても、その社長がそこまで言うならついてくるという人材を育てるのが経営者ではないだろうか。

社長というその人が、社長という立場を降りた瞬間、ただの人になる。権力を失った社長のことを誰が助けてくれるものか。

助けてくれた人しか、助けてくれない。

私は、社内では最も冷徹で、傲慢で、残虐な心を持った冷たい心の持ち主かもしれない。しかし、私は、そのことを十分に自分に言い聞かせている。

そして、厳しさを求める以上に、優しさをどう提供するか考えるようにしている。

従業員満足度、これをなくして、これからの経営は上手く行かない。従業員を顧客と同様に大切にしなければ、顧客満足度など提供できるはずがないんだ。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/06/post_484.html</link>
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         <category>リーダーについて</category>
         <pubDate>Fri, 27 Jun 2008 06:24:46 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>教えることと考えさせること</title>
         <description><![CDATA[数週間前、ＰＴＡ主催の講演を聞いた。内容は、「家庭における指導」についてである。
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内容については、割愛するが、簡単に言えば、指導とは「教えること」と「考えさせること」の違いを理解し子どもと接することというものである。

このブログでは、経営者とは指導者だと言ってきた。指導できない人は経営者ではない。そういう観点から、経営者における指導能力というのも「教えること」と「考えさせること」というのは当てはまる。

この二つの違いは、プロの教師でさえ、誤解している人が多いのだから、指導とは何かを学んでいない管理職や経営者は、もっと誤解するのではないだろうか。

講演で聞いた内容と私が以前から意識している内容はイコールだ。

指導者とは、指導することである。つまり、「教える」ということが原則なのである。教えない人は、指導者ではない。

職人と指導者を履き違え、背中を見て育てというような考えを持っている人がいる。しかし、それは指導をしているのではなく、学ぶ環境を与えているだけで、教えるという行為は一切していないのである。

考える力を身につけるためという理屈で、「教えること」を「考えさせる」ことと同意義に捕えている人もいる。

例えば、部下が資料を作成した時、何の理由を説明せず、「ダメ」と一言だけで突き返す上司がいる。

私の経験では、その上司もそのようにされた経験が間違いなくあるはずだ。そして、その上司は、なぜダメと言われたのかを自分なりに考え、何度も何度も資料を作成し直すことで、上司が何を言わんかを学んだと認識している。

しかし、これは指導ではない。

なぜなら、指導者というのは、方向性を宣言し、自分の指導方針や考え方を明確にする責任があるからである。何も言わずに、自分なりに考えろというのは、上司の行うものではなく、背中を見て育てという前述の職人のやることである。

確かに職人も、立派な後輩を育てることはできる。しかし、それは、背中を見て学ぶ技術のことであり、倫理観や人間性ではない。

会社における経営者の指導とは、技術を学ばさせることではない。経営理念や経営戦略、方針と浸透させ、組織が一丸になる意味を教えることである。そのためには、経営者は、リーダーとなり、目指すべき方向性を高らかに宣言しなければならないのである。

だから、経営者においては、背中を見て学べなどという言葉のない指導などあり得ないのである。

経営者とは、指導することである。教えられない人は、指導者でも経営者でもない。経営者の考えを何度も年度も繰り返し教えることである。自分の考えを教えるのだ。

そして、部下に何か問題や疑義が生じた時、自分の教えた内容に照らし合わせ、何が問題であったかを「考えさせる」のである。

部下に考えさせることは、教えた理念をどれほどまでに身につけているかという一点のみである。なぜ、教えのとおりできなかったのか、それは教えを理解していなかったからに他ならない。なぜ、理解できていなかったのかを考えさせ、理解できるまで考えさせる。

これが私流の「教えること」と「考えさせること」である。

振り返って、家庭での子育てはどうか。親の考えは教えているか。なぜ、親はそう考えるかを子供が理解するように考えさせているか。

教えもしない。考えさせもしない。それは親ではない。

教えられない親が、考えられない子供にしてしまう。教えて、考えさせるのが親の役目だと思う。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/06/post_483.html</link>
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         <category>教育について</category>
         <pubDate>Tue, 24 Jun 2008 06:23:55 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>明日は明日の風を吹かす</title>
         <description><![CDATA[プラス思考と楽観主義は違う。明日は明日の風が吹くと、明日何が起きるかを考えてくよくよするよりも、明日になってから考えようというのは、まさに楽観主義者である。
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確かに、今日吹いている風と明日吹く風は違うのだから、今日の時点で明日の風を考えていても始まらないというの一理ある。しかし、経営者において、明日のことは明日考えれば良いというのはあまりにも無責任であり、能がない。

沖縄の方言に「なんくるないさ」というのがある。

沖縄の人は、南国という土地柄か概して楽観主義である。だから、「なんくるないさ」は、「何とかなるよ」と訳されているようである。

でも私は、本当のプラス思考というのは、「何とかするさ」だと思っている。

「何とかする」のと「何とかなる」とでは、全く意味が違う。

「何とかする」は自発的であり、「何とかなる」は受動的である。

経営者において、「何とかなる」という論理は通じない。「何とかする」のが仕事だ。

プラス思考と楽観主義を混同している。

「何とかなる」と楽観的に考えても、何ともならない。明日は明日の風が吹くとは限らないのである。

私は、そういう意味では限りなく悲観主義者かも知れない。だから、こそプラス思考にする努力をしているのである。

私は、泣き虫である。弱虫である。臆病である。

そして、強がりである。でも、強がることがプラス思考なのではないか。生まれながらのプラス思考などあり得ない。プラス思考というのは、プラスのことを思考するのであって、楽観的に時の流れに身を任せるのとは違うと思う。

私は、プラス思考である。それは、そのように心がけているからであって、生まれながらの無意識に持ったものではない。

私は、泣き虫である。弱虫である。臆病である。だが、私は、強がりなのだ。そこに、プラス思考の意味がある。

強がりだからこそ、明日は明日の風を吹かそうとする。風を自らの力で吹かせることで、その場の窮地を逃れようともがくのだ。

だから私は、何も考えない楽観主義者を見ると、羨ましく思い、同時に嫉妬する。でも、私はプラス思考者だから、楽観主義の経営者を見ると、あまりにも無責任であり、能がないと感じ、勝手にすればと関わりを放棄する。

私は、悲観主義者を応援したい。悲観主義者こそ、プラス思考になれる可能性があるからである。考えてみれば、「何とかなる」と楽観的に考えている者が、何が何でも「何とかする」というプラス思考になれるだろうか。

もちろん、「もしかして上手く行かないかも知れない」と考える悲観主義者が、「きっとやっても無駄だ」とマイナス思考になるのも当然である。

でも、何とかならないのを何とかするのが、プラス思考であろう。

何とかなるだろうと考えられるものは、誰だって何とかなるさ。

プラス思考なんてものは、弱い自分との戦いだけなのだ。そんな単純なことさえ判っていれば、何ともでもできるだろう。

私は、明日は明日の風を吹かせることで、何とかしたいと考えている、小心者である。人間なんて、そんな程度のちっぽけなものさ。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/06/post_482.html</link>
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         <category>経営者について</category>
         <pubDate>Sat, 21 Jun 2008 06:22:58 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>自分という見えない敵</title>
         <description><![CDATA[数ヶ月前、私は「自分は常に自分を崖っぷちにおく」という言葉を聞いた時、頭に衝撃が走るくらい感動したのを今でも忘れない。
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それは、私の尊敬するアイエスエフネットの渡辺社長から聞いた言葉である。

私より一歳年上で、会社設立をして８年で２千名近い従業員を抱える会社にした人物だ。

私は、あの言葉を聞いた時、自分はまだまだ自分を崖っぷちにおいていないことを思い知らされてしまったのである。

私も、彼と同じく毎朝４時半過ぎに起床する。私は、彼と出会うまで、私は私なりに自分という見えない敵と戦ってきたつもりであった。

しかし、自分を崖っぷちにおくというところまでは、未だに至っていない。

私は、このブログの副題でもある"確率より可能性で選ぶ"リーダーになることを考えて生きてきた。

それは、リスクを考えることよりも、挑戦する気持ちを大切にしたいからである。

経営者は、会社という組織に降りかかる様々なリスクを考え、危機感を持って事前に策を練るのが仕事である。

会社を危機にさらさないようにすることは重要である。だがしかし、組織のリスクを考え過ぎると、リスクを取って挑戦する勇ましい精神が育たない。

その理由ははっきりしている。経営者そのものが、経営者自身が自らをリスクにさらすことができないようになるからである。

私は、経営者こそ最大のリスクを背負うべきだと思っている。経営者が行う仕事が、会社のリスクヘッジする仕事だとしても、経営者自身はリスクを恐れず戦う姿勢を持つことが重要なのである。

たとえば、こうして名前を出してブログを書くこと。社内の朝礼ブログを公表すること、これらは全て私にとって戦いである。

自分という見えない敵にやられることを恐れ、守りに入らないようにするために、自分を奮い立たせていると言って良いだろう。

このブログは、社員が読むために書いているのだが、実は私自身のためにやっているようなところがある。

書く内容に困るし、何かを訴えれば、それに自問自答しなければならない。しかし、書くたびに立ち向かう気持ちを呼び起こさせてくれる。

書くことがなく、書けないでいるときも、とにかく向かってみる。何度も何度も自分の頬を叩きながら、気合を入れ、勇気の源を呼び起こそうと捻り出す。これが私の見えない敵との戦い方である。

私は、自分を保身する経営者は最も嫌いだ。自分は捨てても会社を守る覚悟がないようでは、どんな商売が上手であれ、経営者とは呼べない。

しかし、私がこれまで行ってきた自分という見えない敵との戦いは、自分を崖っぷちにおくという姿勢に比べたら雛のようなものだ。

まだまだである。

私がその程度の人間なら、私には自分を崖っぷちにおくような経営者は育成できない。

まだまだである。]]></description>
         <link>http://hottaworld.com/archives/2008/06/post_481.html</link>
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         <category>リーダーについて</category>
         <pubDate>Thu, 19 Jun 2008 06:19:58 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>0.2秒の「はいっ！」</title>
         <description><![CDATA[私は、今から十年以上も前、ある管理職研修というのを受けた。
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その研修で言われたことが、先日、十年経ってよみがえって来た。

それは、"０．２秒の返事"というものである。

良い返事は「短く、早く、大きく」が原則である。その研修では、とにかく早く短い返事を心がけることという内容であった。

なぜ、十年前の研修がよみがえったというと、とても良い返事をする社員がいたからである。たった２文字の「はい」という単語なのに、これほどまで素晴らしい返事を聞いたのは、初めてに近い。

今日の<a href="http://www.hottaworld.jp/2008/06/post_150.html" target="_blank">社内朝礼ブログでは、その内容</a>を書いた。その返事をする彼女は、先週、ベトナムからやってきたばかりの日本語が片言な女性社員である。

彼女の返事は、まさに０．２秒の「はいっ！」というトーンの高い明るい口調の返事である。聞いたほうまでもプラス思考にしてしまうその威力には驚く。「はい」ではなく「はいっ！」である。

挨拶と返事は大切だと知っていても、返事については正直言って忘れていた。それを思い出させてくれた彼女には感謝である。

その彼女は、私が受けた管理職研修のことも、０．２秒の返事が良いことも知らないはずである。恐らく、自分自身でも良い返事をしている意識はないのかも知れない。

では、なぜそんなに素晴らしい返事ができるのか、私は考え込んでしまった。

私は先週、成田空港に彼女を迎えに言った。

彼女は、日本に来るのはもちろんのこと、飛行機に乗るのも生まれて初めてであった。

私は、彼女を待つ間、入国審査など相当に緊張するだろうと考えていた。私の顔を見た瞬間、ほっとして相当に嬉しそうな顔をするだろうなと勝手に予想していた。

そして、彼女が現れた。

私の予想に反し、平然とした顔をしている。ニコリとしたが、それは私にではなく、一緒に歩いて来た隣にいる男性にである。

その男性は、私に握手を求めて来た。そして「ありがとうございました」とたどたどしい日本語で言って来る。

私は「誰？」と彼女に聞くと、飛行機で偶々一緒になったカンボジア人であるという。

私は、ベトナムで彼女と接している時は、おとなしくて、控えめで弱々しい印象と持っていた。

ところが、あの一瞬の姿を見る限り、彼女はもっと前向きで、それでいて芯の強い女性のように思えた。

彼女は、一見弱そうに見えるが、物事を前向きに捉えるプラス思考の持ち主のようである。

私は、ベトナムでも何度も話をしているが、正直言って、日本で再開するまで彼女の返事の良さには気がつかなかった。

彼女は、日本に来るという思い切った決断をした後に、何もかもが初めての出来事をクリアーしたことで、何かが吹っ切れたのかも知れない。

改めて返事のことを考えると、プラス思考だから良い返事になり、良い返事をするからプラス思考を保てるようだと思えて来た。

誰でも悲しい時や、内向きの時には良い返事も出来ないであろう。しかし、彼女は、これから始まる初めての地での不安な気持ちを、「はいっ！」と心をスイッチを切り替えるかのようにしているようである。

改めて０．２秒の「はいっ！」という返事が自分にも、周囲の人も良い影響を与えるものだということを痛感させられた。本当に「はいっ！」という返事は素晴らしい。]]></description>
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         <category>嬉しい出来事</category>
         <pubDate>Mon, 16 Jun 2008 06:18:39 +0900</pubDate>
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