織田信長は、合理主義者だった。天下を統一するために、必要なもの、不要なものに瞬時に見分けた。日本に伝わってきたキリスト教の宣教師を重用したのも、キリスト教の信仰が目的ではなく、西洋の先進技術や武器を手に入れることが目的だった。
それ位、利用できるものは利用し、利用できないもは排除した。この考えは、信長の人材登用にも表れている。信長ほど、卓越した逸材の部下を輩出した武将は少ないのではないだろうか。
織田信長は、明智光秀、石田三成など身分や家柄に拘らず、有能な人材を次々に登用したことから、能力主義者だと言われている。
藤吉郎(後の豊臣秀吉)を登用した時、不満に思う重臣たちを前に「人を用ふるの者は能否を択ぶべし。何ぞ新故を論ぜん。」 と信長は言い聞かせたそうだ。
ただ、私は、信長の人材登用の考え方は、そんな単純なものではなかったように思う。
一つは、能力主義ではなく、成果主義者であったことだ。
彼は、人をまとめる能力や、武道の能力が高い者、あるいは部下から慕われているという理由で登用したのではない。彼が行ったのは、あくまで実績主義だ。今の言葉で言えば、成果主義である。これは、明らかに能力主義とは違う。
天下を取るという目的に対し、戦国争乱の中で、どれだけ戦いに勝ったのか、これが最も合理的な一番の登用理由なのである。
それまでの家系や年功序列を重んじる家臣たちに、そのような考えでは天下は取れないということを伝えたかったのだろう。目に見えた成果をあげたものを登用すれば、成果をあげられないものは何も言えないということだ。
しかし、私は、信長の成果主義を考えるとき、もう一つのファクターがあるように思えてならない。
それは、部下の忠誠心である。信長は、忠誠心という彼にとって最も重要な基盤の上に、成果主義を掲げたのである。
信長に対し、最も忠誠心が高い家臣は、柴田勝家と丹羽長秀だ。信長は、十分にそれを知っていて、家老の席順一番目に柴田を、二番目を丹羽とした。
織田家の柴田・丹羽の双璧と言われた。当時「木下」姓だった豊臣秀吉は、信長に双方の字を取って「羽柴」の姓を申請したとされる。これも、秀吉が、信長に忠誠心を表すためだ。
ところが、成果主義を履き違えた明智光秀はそうではなかった。忠誠心より成果が重要と思ったのだ。そのため、光秀にとって、信長は信頼できる上司ではなく、信長にとっても信頼できる部下ではなかったのだろう。その結末が、本能寺である。
織田信長は、このような結末を向かえないようにするために、次のような人材登用を考えていたに違いない。
一、忠誠心が高く、成果をあげたものを最も信頼する。
二、成果をあげられなかったものでも、忠誠心が高いものには再びチャンスをあげる。
三、忠誠心が低くても、成果をあげたものに成果をあげる。
四、成果をあげられないものは、どんなに家系が良くても、能力があっても評価しない。
このようにまとめると、信長がどれほど忠誠心を重視していたか判るだろう。しかし、一般的には、三の「忠誠心が低くても、成果をあげたものに成果をあげる」という考えが当時としては斬新なため、信長の能力主義というのがイメージされるようになったのだろう。
しかし、その三があったために、光秀に殺される。その後、秀吉や家康のように、どんなに成果や能力があっても忠誠心がないものは、切り捨てるという本当に信長が目指す究極の合理主義が徹せれば、天下統一も果たせたのかも知れない。
信長の合理主義は、未完成だったに違いない。利用できるものは利用し、利用できないもは排除するはずなのに、心の通っていない利用しずらいものを排除できなかったのだ。
私は、信長、秀吉、家康の中で、信長が最も大好きだ。革命的で斬新で、若々しく、荒々しいリーダーシップにあこがれる。そして、信長が作りだそうとした人材登用の考え方にも共感できる。
最も信頼できる部下とは、最も忠誠心が高く、かつ成果をあげるものである。
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投稿者 :堀田信弘: 2008年8月23日 06:02
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