『人を裁くのはやめなさい。そうすればあなたも裁かれることはありません。
人を批判するのはやめなさい。さもないとそれはすべて自分のところへ戻ってきます。
あなたが人を許すなら、あなたも許されます。
あなたが人に与えれば、あなたにも与えられます。あなたがしたことは、すべてがあなたに戻ってきます。』
とは聖書の言葉である。
私は、宗教家ではないから、この考えに云々するつもりはない。しかし、現実として、裁く者は裁かれる。裁かぬ者は裁かれない。許す者は許される。許さぬ者は許されない、という事象は起こるものである。
先月、知り合いのある会社が倒産した。
その社長は、とても厳しい社長だったようだ。厳しいという意味は2つある。一つは、他人に厳しい。そして、もう一つは、自分に厳しい。
他人に厳しく、自分に厳しいと、完璧主義になる。
彼は、他人のミスが許せなかった。彼にとって、ミスは悪であり、許し難いものであったのだ。悪は、罪であり、彼は次々に社員の首を切った。
彼は、自分もミスをしないように完璧を目指した。しかし、現実に人間は、ミスをするものである。そして、誰もしようとしてミスをしているのではない。ミスをしないとすれば、それは人間ではなく、ロボットである。
ミスをするはずもないロボットがミスをしたら、本来は、そのロボットを設計した人のミスなのである。しかし、彼は、自分の設計は完璧であると思いこみ、それを言うとおりに動かなかったロボットのせいにした。
その完璧主義は、理想の追求とうたわれたが、遂に彼は現実主義に敗れることになる。
それは、感情のないロボット扱いされた部下の反乱である。部下達が、彼に切られる前に、彼を見切ったのだ。一瞬で全社員がいなくなり、全ての取引が止まり、遂に力尽きた。
聖書の言葉を借りれば、彼は、ミスを悪と定義し、罪として裁いた。妥協が許せず、完璧を貫くために、部下のミスを許せなかった。
しかし、その社長が、逆に裁かれることになる。社長は与えることよりも、求めることを優先した。部下達は反発し、社長を許すことができなくなった。
私は、決してこの社長を批判するつもりはない。なぜなら、私自身も、相当数の部下の首を切ってきたからだ。だから私は、常に、今度は私が切られる番だという意識が強い。
切られる覚悟で、切っている。しかし、だからこそ、私は、人が人を裁くことの難しさを知っているつもりである。そして、人として裁きを間違えれば、自分が裁かれることになるとの認識もある。
私が切るのは、完璧主義だからではない。ミスを許せないのでもない。
私は完璧主義ではなく、ダメ人間だ。欠点だらけの人間だ。だから、私には助けがいる。私は、一人では何もできない人間なのである。それを支えてくれる人たちを、勢い良く、切ることはできない。
『目の見えない人が、もうひとりの目の見えない人を導いて何の良いことがあるのでしょうか。前の人が穴に落ち、後ろの人も引っ張られて落ちてしまいます。 』と聖書は続く。
この言葉は、まさにリーダーに対する言葉である。
知恵や教養もなく、愛情も人情もないような人の心を見えないリーダーでは、リーダーの没落と共に部下までもが道連れになるだけである。
そして、この言葉は、私への言葉でもある。
その社長からメールが届いた。
『裏切られた。でも、私は彼らを最初から裏切っていたのかも知れない。全てを失ってから気が付きました。』
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投稿者 :堀田信弘: 2008年7月14日 05:55
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