中国やベトナム、カンボジア、タイなどの東南アジアに訪れると、若者が必死に働いて家計を助けようとする姿を目にする。小さな子供たちが、手に花や絵葉書を売って歩く姿を見る度に、勇ましささえ感じてしまう。
なぜ、彼らは、朝早くから夜遅くまで”必死”で働くのだろうか。答えは、簡単である。食べるためだ。私は、その光景を見て、いつも不思議に思うことがある。それは、食べるために”必死”に”一生懸命”に働く姿が、私には悲壮感が感じられないことである。
バングラディシュの田舎町に行っても、子供たちはニコニコとして働いていた。”必死”や”一生懸命”などという言葉より、生活を楽しんでいるかのように思えた。食べるはずのために、どうしてもしなくてはならないことなのに、なぜだろうか。
あの子たちは、決して好きで働いているのではないはずである。しかし、だからと言って、仕方なく働かされているのではなく、やなければならない責任を自覚しているかのようである。
彼らは、自分が家族のためにやれることを、やっているのである。やれないことをやらされているのではなく、やれることをやっているのだ。
一方、なぜ、日本には、フリーターやニートが誕生したのだろうか。世界的にも珍しい現象である。
日本では今、大学生が就職活動をすると、複数の内定をもらう人も多い。その複数の中から、何を基準に選ぶか。それは、自分がやりたいことに近いかではないだろうか。
やりたいことと、やれることは、一致しないことが多い。それが本来の姿であるはずだが、今の日本では、やりたいことを優先できる環境がある。仕方なくやれることをやって我慢するより、やりたいことが見つかるまで待っても食べられない訳ではない。
やりたいことは、自分が未だやっていないことをやってみたいと思う願望である。欲求である。それに対し、やれることは、自分がこれまでやってきたこと、少し努力すれば行えることである。だから、これは欲求ではなく、ある種の必然とも言えよう。
だからこそ、欲求と必然が交わる可能性は低いのだ。
人間は、やりたくないことをさせられたら、能力を発揮できるはずはない。それは、自分の意に反する苦痛だからである。では、その逆に、やりたいことをさせれば、その人は能力を最大限発揮できるのであろうか。
私の答えは、イエスだ。恐らく多くの人もそう考えるだろう。しかし、私のイエスには、大きな条件がある。
それは、やれることを本気でやれるということである。やれることをやれないようでは、決してイエスにはならない。つまり、やれることと、やりたいことが一致した時点で、始めてその人の能力が発揮できるである。これがイエスの条件である。
しかし、違った見方をすると、必ずしもやれることと、やりたいことが一致しなくても能力が発揮できることがある。それは、やれることをやることである。それが、やりたいことでなくても、十分に能力が発揮できるのである。
大体にして、自分自身が考える能力とは何だ。自分の能力は、もっともっと高いとでも考えているのであろうか。
繰り返すが、やりたいこととは、欲求だ。欲求が満たされるのと、能力が発揮できるのを混同してはならない。
私には、やりたいことがある。それは、私の欲求であり、自己満足であり、夢でもある。しかし、今の仕事は、それとは違う。だが、決して苦痛ではない。私は、仕事が大好きだし、自分がやれることをやれる喜びさえ感じている。
しかも、やれることを積み上げることで、やりたいことに向かっているような満足感がある。
やりたいこととやれること。やれることをやることが、やりたいことに近づくと信じている。だから、やりたいことを先に考えることは、必ずしも良い結果が生まれるものではないのだ。
私は、自分の欲求を優先することより、自分が果たせる役割を優先したほうが、自分の欲求に近づくと確信している。
やれることからやろう。やりたいことがやれるようになるために。
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投稿者 :堀田信弘: 2008年1月 5日 18:59
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