社内で議論している時、少し意識して耳を傾けて聞いてみると良いだろう。部下が上司に訴えるとき、曖昧な数量を表す言葉が、何度も乱発されることに気がつくはずだ。
「大部分が」「みんなが」「多くの」「全体として」「すごく」「とっても」等等。これらの特徴は、「大きさ」や「多数」を表す言葉である。不思議なことに、「稀に」「極少数の」「あまりない」など「小ささ」「少数」を表す言葉が出るのは、”極少数”である。
なぜだろう。
私は、そのような時、一喝する。「みんなとは、誰と誰だ」、「大部分がというのは何パーセントのことか」、「多くのというのは、母数はいくつだ」など。
なぜ、曖昧な数量を持ち出して、議論を進めようとするのだろうか。
十年も前のことである。こんなやり取りがあった。私がある内容を説明すると、「それは、みんな、おかしいと思っていますよ」と一人が発言した。私が、今、この場で説明したことに対し、「なぜ、みんながそう思っていると言えるんだ」と怒鳴りつけた。
「それは、みんなではなく、お前の意見だろう。みんなのせいにするな。自分はこう思うとなぜ言えない」と興奮した。
このやり取りを、逆に部下の立場から考えてみよう。
私がもし、逆の立場で、上司の話に”反発”するとしたらどうしようか。上司の案を廃案にするとしたら、全員が反対すれば、上司もそれ以上、進められないと思うと考えるはずだ。
その時に「みんなが」と、三人称を使うのだろう。私はあなたのという二人称が使えないのは、自分の考えに信念がなく、自信がないからである。自信がないのだが、感情的に納得いかないことは確かで、反発して強さを判ってほしいと理解を求めているのかも知れない。
その背景には、上司と部下の関係が1対nの関係という構図がある。部下からするとたった一人の上司だが、上司からするとnの部下がいる。
つまり、部下から見ると、上司は部下を1/nに過ぎないと感じている。自分がたった一人の上司と対決して、もし嫌われたら、他のnに気持ちが移ってしまうとの気落ちが働く。部下というのは、単に上下関係というだけでなく、数の構成の中で弱い立場にいるのである。
だから、nが一丸となって、1対1の関係に持ち込もうと考えるのは、当たり前のことなのかも知れない。
もし、部下と上司が1対1の二人だけの関係だと、「みんなが」という発言は当然起きない。人間と人間と差しで対等に意見交換できる関係になる。本来、上司と部下という上下関係であっても、私は、対等に意見交換できるようにすべきだと考えている。
私は、対等に議論したい。そのためには、現場のありのままの状況が知りたい。できるだけ正確な数量、数字を知りたいのだ。その数字の持つ意味から、議論を深めたいのである。
私は、対等に議論したいのだ。
だから、「みんなが」と自分の考えを、あたかもみんなの考えのようにすり替え、まともな議論ができなくするような行為は断じて認められない。
数量にしても同じである。曖昧な数量を示すのではなく、数量を示すのであれば、実数を用いて、多いほうの理由と、少ないほうの理由を併記し、論理的に自分の意見を言うべきである。感覚的に自分が感じていることはとても重要だ、だからそのことを正確に理解してもらうためには感覚で訴えていてはダメなのである。
上司は、部下の心理を理解しようとしている。していない上司は論外で、私は少なくても、なぜ、部下はこのような発言をし、何を訴えたいのか、その人の性格を鑑みて想像しようとする。そして、できれば理解してあげようと思っている。
同時に、部下も上司と真剣に勝負してほしい。部下も上司にどう接して、どのように論理的に説明すれば、理解してもらえるのか、予想される反対意見も想定しながら、プレゼンしなければならないと思う。上司を説得、口説けないようであれば、とても外部へのプレゼン能力はまだまだと言わざる得ない。
但し、私の場合、そう簡単ではない。まずは、正しい数値を示すことは当然だが、そもそも、私のこのブログ、”確率より可能性で選ぶ” を志向しているのだから、どんなに「大部分が」とか「大半が」と言われても、私の中では、いつも少数のほうに相当な興味がある。
多かろうが少なかろうが、どうしたら現状より良くなる可能性が秘めているのか、それで真剣に議論したい。
私には、確率が低くても、可能性が高いもの選択したいし、確率が高くても、可能性が低いものは選択したくない、という気持ちがある。そんな気持ちに沿った提案をしろと言っているのではない。そんな気持ちを変えるくらいの説得力ある提案があっても良いと思っているのだ。
議論とは、正々堂々と、ありのままの状況をお互いに共有した上で進めるべきである。状況認識に誤解を招くような発言をしていては、本当に良い改善策など生まれない。
その中でも悪質な典型は、前述した「稀に」「極少数の」「あまりない」など「小ささ」「少数」を表す言葉を用いた時に起こる。
「大部分は」「みんなは」という「大きさ」「多数」を表すのは、言って見れば単純なことだ。数の曖昧さこそあれ、その大きさを表す感覚はそれほどずれていないはず。ほんのわずかな件数のことなのに、嘘をついて「大部分は」というような人はいない。
それより、100件に一件、あるいは千件に1件しか発生しない「稀に」「極少数の」イレギュラーな事象を、あたかも十分の1の割合で起こっているかの如く、誇大に表現することがある。
このように非常に稀なケースを持ち出されると、議論が混乱する。木を見て森が見えなくなり、全体としてどうするかという基本を決めることから遠ざかってしまうのだ。まず、基本を決め、イレギュラーなことへの策は、別途考えれば良い。悪気は無く「稀な」例を持ち出した場合には、「それは後で考えよう」で済むが、全体を反対したいがために、「稀な」例を持ち出す場合が悪質なのである。
針小棒大である。私の中では、いつも少数のほうに相当な興味があるから、少数意見に折角耳を傾けようとしているのに、とても小さなことを大げさに針小棒大で表現されると、怒るというよりは悲しくなる。
針小棒大だけは、議論の中に持ち込ませてはならない。
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投稿者 :堀田信弘: 2007年11月 5日 03:12
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