昨日、ホーチミンから帰国した。ベトナムに行くと、必ず感じることがある。それは、コミュニケーションギャップだ。
日本人とベトナム人とのコミュニケーション、それと日本人と日本人とのコミュニケーションについて。ベトナムにいると、日本にいるより遥かに敏感に感じる。普段感じないことが、嫌と言うくらいに感じてしまう。
人間同士のコミュニケーションは、簡単ではない、まずそれを前提に知っていなければ、そもそもコミュニケーションは上手く行かない。私たちは、日本にいると、日本人同士でも通じないことをあまりにも知らな過ぎる。
今朝、知的障害の長男が、冷蔵庫を開けて2本のジュースを私のところに持ってきた。両手で1本づつ持って、私に飲めという仕草をする。私は要らないと言った。すると、残念そうな顔をして、もう一度、私の目の前に差し出した。
私は、もしかして、ふたを空けてほしいのかと思い、「空けようか」と尋ねてみた。すると今度は、嬉しそうにニコリとし、空けてもらったジュースを喜んで飲み干した。
このコミュニケーションは、ずっと長男と付き合ったからできるのである。恐らく、初めて息子と出会った人は、このやり取りが判らないであろう。真剣に彼の仕草を見ていないと、私でも理解できない時もある。私の母は毎日一緒にいても中々理解できないで苦労をしている。
2本のジュースを持ってきた時、両手に一本づつ持っていた。まずそこに意味がある。自分だけが飲みたい時は1本だけで良いのだから。最初に私に差し出したのは、左手に持ったほうだった。左手は、利き手ではない。人間は、本能的に自分の大切なものは右手に持つのが普通だ。
だから、左手のジュースは、私に飲んでという意味であったのだ。そして、次に差し出したのは、右手のジュースである。自分が飲みたいジュースを差し出したと言うことは、自分が飲む意思を表している。
この細かい動作を良く観察していないと、普通の人は、同じ動作を2回やったと勘違いする。最初に要らないと断っているのに、また同じ動作をなぜ行うのか理解できず、しつこいと思うはずである。またあるいは、最初の左手の時に「空けようか」とこちらが尋ねていたら、彼は断るはずだ。すると、2度目に差し出された時には、なぜ一度断ったのに、何を求めているのか混乱するはずである。
手元に、「ことばのない子のことばの指導」という本がある。
私は、子供が障害で生まれたことが幸いし、こういった本を通じて、障害者でもコミュニケーションを取れることが判った。お陰で、それが高じて健常者のコミュニケーションについても、敏感に感じ取り、かつコミュニケーションが難しいことを良く理解できるようになった。
この本の中に、ことばには、3種類あると書かれている。
一つ目は、音声ことば(speech)である。音にして感じるもので、トーンや口調、上がるか下がるかだけもその意味が異なってくる。「え~」という音は、語尾が上がれば驚きの意味だし、下がれば納得の意味にもなる。明るく言えば、喜びの意味だし、暗く言えば、悲しみを表す意味にもなる。
もうひとつのことばは、思考を伴うことば(language)である。言語のことである。同じ”ありがとう”の意味でも、日本語で英語、ベトナム語では言い方が違う。また、あることばは、地方によって言い方が違う方言もある。
そして、この二つ両方の意味を表すことば(word)がある。
人間は、このワードを中心にコミュニケーションを取ろうとする。言葉の意味に感情という音を乗せて会話するのである。しかし、私の息子のような知的障害者や視覚・聴覚障害者は、音声ことばか、思考ことばかの何れかが欠如している。音の変わりに身振りだったり、あるいは、「うぅう」と音だけであったりする訳だ。
つまり障害者は、音か思考かの何れ一方だけで、そのことばに感情も乗せなければならないのである。
私は、英語がまともに話せないが、このことを知ったお陰で、数少ない思考のことばである単語に、身振りを加えたり、あるいは語尾を強めたりして表現することで、以外にも世界中どこでも通じるような気がしている。
さらに、コミュニケーションというのは、何もことばだけで行うものではないということを知った。コミュニケーションの目的は、意思が通じることであるから。
時々、問題があるとコミュニケーション不足という言葉で、問題を解決しようとするが、私はそれは間違っていると思う。不足しているのは、会話の量ではないのだ。
息子が持った右手のジュースの意味を理解するのに、十分に話をすればできるというものではないのである。それでも、私は、話のできない息子とコミュニケーションが取れるのはなぜか。
それは、観察し想像するからである。時には、その想像が外れることもあるし、観察を怠ってしまうことがある。そんな時にはコミュニケーションが成立しない。
しかし、成立しなかったのは、息子の問題ではなく、私が100%問題なのである。なぜなら、彼が発信する方法は、いつも同じで、彼は私が誤解するような特殊な技を持っていないからだ。
このように考えると、コミュニケーションとは、発信側と受信側があり、発信側か、受信側の何れか一方のみが、十分に気を使っていれば最低限成立することが判る。
勿論、発信側も受信側も両方が気を使えば、尚更であるのは言うまでもない。
それがなぜ、外国人とのコミュニケーションならまだしも、同じ日本同士なのに、日本とベトナムと離れているだけでコミュニケーションが上手く行かないのだろうか。それは最低でも何れか一方が気を使っていないか、両方が気を使っていないからである。
外国人とのコミュニケーションだったら、如何にして伝えようかと気を使うはずだが、日本人同士の場合は、想像できるだろう、気がつくだろうと言った気を使わないことが多いように思う。
メールでも何を言いたいのか、どういう背景なのか、なぜそうなったのか、ベトナムから日本のメールを読むとさっぱり理解できない。主語もない、時期もない、そしてついには、受信したら返信するということすらない。
コミュニケーションは、発信だけするのではなく、受信した側の反応を見ると言った送受信をしなければ成立しないのだ。
何度ベトナムに行っても、いつも同じことを感じる。それなのに、こんな私でも、日本にいる時は、人一倍神経を集中していないと見逃してしまう。日本いると、コミュニケーションギャップや、コミュニケーションロスが生じていることに気がつきにくいのだ。余程、発信時にも受信時にも気を使わないと上手く行かないことを、社内にも知らせて行く必要があると感じている。
特に、最近は、メールがコミュニケーションの大きなツールとなっている。メールの使い方を知らないビジネスマン、メールという文字で伝えることが下手な日本人が多いこと、社内のメールを読んでいても悲しいほど多すぎる。
本気で伝えたい、本気で理解したいと心底から思っていれば、ことばのない子とさえコミュニケーションが取れるのに。
本気で伝えたい、伝わってほしい、理解したい、お互い上手く仕事をしたいと真剣ではないのだろうか。
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投稿者 :堀田信弘: 2007年10月 6日 10:46
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